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zoom RSS 熱田さん撤退の記事を見て

<<   作成日時 : 2006/07/21 14:45   >>

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村落共同体を支える関係
私が、三里塚に入ったのは、1971年2月の強制収用阻止闘争からだった。インターの現闘は、朝倉部落の公民館を借りていた。1968年以来、砂川で立川基地拡張阻止闘争に参加していたので、農民とのかかわりはある程度慣れていたが、寝泊りして居住を共にするのは初めてだった。その頃の朝倉部落は、18戸くらいだったろうか。
 間借りしている関係で、朝倉公民館で開かれる部落集会に参加するともなく聞くことになった。方言や屋号が飛び交う会合で、何が話し合われているのか定かでないことが多かった。加えて部落集会は、我々の会議のように議題に沿って発言があるというものではなく、あっちこっちでごちゃごちゃと話があってなんとなく終わった。それでも、何日の何時から道普請をする事などがきちんと決まっており、その時になると一家に一人は出て農道などを普請したりするのだった。
 別に、契約という関係があった。2戸の農家が、相手の冠婚葬祭の時、全ての面倒を見るという約束を交わした関係のことを『契約』と言った。故秋葉哲元救対部長の爺さんの葬式の時、『秋葉家と相馬家は契約でございますので』という挨拶があって葬儀は司られた。
 さらに、「結い」といって、田植えや稲刈りなどで互いに力を貸しあう関係もあったし、頼母子講とか無尽という互助的な金融関係もあった。
 そのような幾重もの関係によって、部落共同体は支えられていた。どのように大きな農家であっても、このような関係なしに農業を営むことは出来なかったし、日常生活も存立できなかった。
永年の中で発達してきた相互扶助、互助の関係は、朝倉という集落と個々の農家の日常にとって不可欠な関係だった。それは、地域の田畑と集落、森や野原のバランスを程よく保つ機能でもあった。
部落の破壊
 2003年に秋葉哲さんの葬儀が有って、およそ20年ぶり朝倉に行った。秋葉さんの家は朝倉部落で公民館付近に残った最後の一戸だった。
 驚いた。秋葉さんと朝倉公民館の周辺の様相は激変していた。いわゆる本道はコンクリート舗装されていた。しかしあぜ道というあぜ道は、深い草で覆われていた。公民館の裏から岩山に抜ける道は、つたと雑木で通れない状態だった。
 そこは、かつての村落を穏やかに包む自然とそれに調和した共同体があった朝倉ではなかった。
 
 成田空港にかかわる40年にわたる農地買収過程において、当初の買収交渉の多くは部落単位だった。駒井野において、天浪でも、岩山でも農民は村落ごとそっくり移転していった。これは、上記の相互扶助の日常関係から弧絶しては生存できないという危機感からするまとまりだった。移転先で、同じ単位の集落を作っていた。
 残った農家がある。その農家は、部落集会、契約、無尽などの関係を断ち切られた極度に不安定な日常を強いられた。その孤立した日常は、支援との関係で幾等かはやわらげられる。しかし社会的な動物である人間において、加えて自然とのかかわりがより深い農業において、支援という外在的で一時的な関係で、その空白は埋められるものではない。

 秋葉さんにしろ、熱田さんも、岩沢吉井さんも、辺田の石井英助さんも、三里塚の農民の全てが、そのような社会的、地域的、家族的関係を、たけのこ皮を一枚一枚剥ぐように奪われ裸にされてきた。それが、精神的な内面生活もも揺るがし続けたことに疑いはない。

 状況がこのようである時、なお踏みとどまるか否かは、いかなる他人も介在できる事柄ではない。当人が決め、関係者が決めることだ。我々支援は、それをそのものとして受け止めることしかない。
移転先の生活
 ただ、それでもなお私は思う。
 熱田さんは、住居を成田市内の長女宅に移転して本当に幸せな残された生涯を全うできるのだろうか。
 横堀の一帯は、熱田さんの肉体そのものだったし、要塞建設にかけたただならぬ熱情は、今も覚めやらず熱田さんの体内にあるに違いない。
 横堀から撤退するとの決め事は、熱田さんの主導でなされたものではない。長女夫婦の主導での事だ。長女の連れ合いは、元インター現闘メンバーだ。元の身内に関係する事だから、より厳しい感情が私に湧くのかもしれない。
 下山の家族にも横掘部落が破壊されたことによる過酷な日常があっただろう。二人の子供の教育も厳しいものだったに違いない。しかし、熱田さん夫婦の人生を横堀で完結させることをあらゆることに優先して欲しかった。
 岩山部落の最後の4戸が移転した後、岩沢吉井さんの一戸だけが残った。
 岩山大鉄塔の攻防戦が終わり、3・26闘争も終わった後、岩沢家の移転が決まった。
 その時私達は、『爺さん夫婦だけは残して行ってくれ』と息子さん夫婦に頼んだ。宅地を30坪ほど分筆して庵を建て爺さん夫婦は残った。今の木の根のような爆音の真下に老夫婦は数年を暮らした。私を含め、インターの大半がいなくなってしまったこともあって、老夫婦の日常は寂しいものだったろう。
 しかし、移転先よりは爺さんの世界があり、充実していたものと思う。
 岩沢さんが亡くなった時、私は弔辞を書いて、
 喪主の源太郎さんに
『これを棺の中に入れてくれ』
といって読んだ。
源太郎さんは、涙を落としながら
『有り難う』
と言って一番上に入れてくれた。
一番残念なのは
 横堀から離れて成田に移ったら、それは熱田さんであって熱田さんでなくなる。
熱田さん老夫婦の残された生涯にとって、どこでの暮らしが充実し幸せであったか、その一点で、下山夫婦の選択は、正しいとは思えない。

 東京の郊外の絶対安全地帯に住み、葬式で行くことはあっても25年以上三里塚に関わっていない者が、口出しできることではない。
 それでも、はっきりしていることはある。
 熱田家の横掘からの撤退を、一番残念に思い苦しんでいるのは熱田さんであり、デーズカの親父であり、熱田老夫婦だ。
 2006年1月21日

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